【ちょっと驚いた】 自民党から1990年の衆議院選挙に立候補した阿部令子氏(旧大阪3区)は 統一協会の霊感商法で霊能者役をした人物だったが、 この選挙の自民党で、たった一人の女性候補者だった! このころの自民党の衆議院の女性候補者と当選者の状況は、どうだったのか。

【ちょっと驚いた】

自民党から1990年の衆議院選挙に立候補した阿部令子氏(旧大阪3区)は

統一協会霊感商法で霊能者役をした人物だったが、

この選挙の自民党で、たった一人の女性候補者だった!

このころの自民党衆議院女性候補者と当選者の状況は、どうだったのか。

 

この表題のようなことに、ネットで検索して気づきました。

え? ちょっと、ホントに?

1990年といったら、いまから33年前。

土井たか子社会党委員長になったのが、阪神タイガース優勝の翌年1986年。

1989年の参院選で躍進し「マドンナブーム」「山が動いた」「やるっきゃない」! その翌年のこと。

もう平成になってます。自分には選挙権もありました。

それなのに、自分も投票を幾度か重ねてきたこの時期に、女性の衆議院議員がずっと、少なかったことに、いまさらだけども、びっくりしました。

しかも自民党は、女性候補者はひとり? 落選したから女性当選者いなかったわけ?

もしそうなら、そのころの自民党衆院選女性候補者の状況は?

ということを、調べたので、ちょっとレポートしてみますね。

 

さて、1980年、83年、86年、90年と、1980年代のはじめから、1990年のバブル崩壊のころまでの10年間の4回の衆議院選挙で、自民党はのべ何人の女性候補者を立て、のべ何人を当選させてきたでしょうか?

あなたの予想は?

その答えを、レポートしてまいります!

 

※この報告は、昨秋に書きはじめたが、書き終えていなかったものを書きついだもの。

 阿部令子氏が、自民党唯一の女性候補だったことは、有田「改訂新版 統一教会とは

 何か」にも書かれている。当時書いた文章のまま、以下、話をつづけます。

 

昨年、有田芳生さんが、阿部令子氏が旧大阪3区で1990年に自民党から立候補したいきさつについて、9月21日に大月書店から発売される「統一教会とはなにか」の新版に書いていますというツイートをしました。

それで、阿部令子氏のことを、ある方法でネット検索してみたら、この年の雑誌「財界往来」や、数年後の「赤旗」に、この選挙で自民党唯一の女性候補者だったという記載があることがわかりました。

でも、ほんとかね。自民党衆議院議員って、200人台の後半ほどはいるはずで、候補者は300人台がいるはず。女性候補者が1人だけなんて、そんなのあり?

しかも、中選挙区制だよ、って思いました。

 

ネット検索でさらに追求すると…。

1)まず、ウィキペディアで、この選挙での自民党の当選者のうち、女性は「0」だと、わかりました。自民党からの立候補者は338人。当選者は275人。全員が男性♂。

2)ついで、つぎの記述を、検索で見つけました。

「女性の候補者数は66人で、前回の総選挙より31人増加した。その党派別内訳は、自由民主党1人、日本社会党8人、公明党1人、日本共産党29人、民社党1人、諸派15人及び無所属11人となっている」

衆議院議員総選挙最高裁判官国民審査結果調 自治省選挙部 1990より)。

これで、自民党からの女性の立候補者は、統一教会の阿部令子氏の一人だけだったことが確定しました。

 

ついで、さらにネット検索を進めると、つぎの論文にゆきあたりました。

衆議院議員総選挙における女性候補者」上條末夫、駒澤大學法學部研究紀要(48)、p57-104、1990-03、駒澤大学

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/16829/KJ00000099795.pdf (PDF)

 

この論文は戦後の「中選挙区制単記投票制」がはじまった第23回総選挙(1947.4.25)から、第38回総選挙(1986.7.6)までの、衆議院総選挙における女性候補者が総覧できる。

それ以降について、筆者がしらべたこととあわせて、おもに中選挙区制の時代に、衆議院選挙の女性候補者は、各回それぞれ何名いて、当選者は何人だったかを、レポートしていこう。

 

この論文にある、第38回総選挙まで以後のデータを、直近の第49回総選挙(2021.10.31)まで、筆者が補った表を、このあとしめしましょう。

第41回総選挙(1996.10.21)以降は、小選挙区比例代表並立制に変わった。

それまでは、自民党では、女性候補者が1ケタどころか、第35回総選挙(1979.10.7)以降は、「1⇒1⇒1⇒0⇒1⇒2」といった、ひとつの核家族の女性の人数か、それ以下のような状態が、17年もつづいてきたことになる。

とくに、第38回(86.7.6)は、立候補者ゼロ。

男女雇用機会均等法が施行されたのが、1972年だそうで、それから14年後の、自民党が300議席をとって圧勝した選挙で、候補者ゼロ。当選機会じたいがゼロ!

社会党敗北し、土井たか子委員長誕生このとき自民党女性候補ゼロだたとは

第41回総選挙で、やっと「10名」になって、第24回(1949.1.23)以来、ほぼ半世紀近く、47年ぶりに、2ケタの候補者になるのでした。

 

ちょっと省スペースでまとめたために、政党の変遷があるのを同じタテ列に書いているものがあるので、その説明をしておきます。青字の政党名のところは、複数の政党を、1つのタテ列のなかであつかっているので、ご注意ください。

つぎに表を掲載したあとで、まず、その説明をします。

左の数字が候補者数、右の数字は当選者数です。

 

 

上の表についての註釈は、このレポートの末尾にも書くが、小選挙区制のもとでの多党化以降のことだけ、ここに注記しておこう。

同じ縦軸を、複数の政党にもちいて記しているものがある。

民主党の欄は、48回以降は、立憲民主党にもちいた。

民社党の欄を、49回は、国民民主党にもちいた。

新進党の欄を、つぎのようにもちいた。

 40回:日本新党(3-2)、新生党(1-0)

 46回:日本未来の党、47回:生活の党

 48回を、希望の党にもちいた。

*公明の41回には、新進党で当選した公明系の女性代議士数を(4)としるした。

補欠選挙や繰上げ当選で、議員になった方もいるが、この表にはあらわれていない。

 

自民党は、36回(80.6.22)で、女性代議士がいなくなった。37、38、39回も、女性代議士は、出なかった。

40回(93.7.18)で前回は無所属で落選した野田聖子さんが自民党の公認をえて当選女性代議士の空白を、13年ぶりに埋める。

また、38回(86.7.6)衆院選には、自民党女性候補さえいない状況となった。

35回(79.10.7)からは、女性候補は、ひとりだけ。

それは、誰だったか?

山口シズエさんだった。

第22回総選挙で、日本社会党から東京1区で初当選。31回(67.1.29)まで、連続10回の当選をつづける。

Wikipediaによると、

「1967年1月の第31回総選挙で党内派閥抗争のもつれから選挙違反を告発される。結局不起訴となったが、党に不信感を抱き同年5月に社会党を離党。無所属を経て、同年9月に自由民主党に入党して話題を呼んだ」らしい。

以降は、自民党で、32回(69.12.27)では当選。だが、33回(72.12.10)は落選。

34回(76.12.5)、35回(79.10.7)では当選。

この35回で、自民党女性候補は、山口さんだけになっていた。

36、37回は、唯一の自民党女性候補であったが、落選し、引退する。

1979年の35回から、1990年の39回に阿部令子が自民党の公認をえるまで、11年間、もとから自民党だった候補で、自民党女性候補となった方は、いなかったことになる。

 

そんなところに、選挙期間中に自民党公認となったのが、阿部令子、そのひとだった。

国会図書館の書誌情報によると、「週刊文春」1992年12月10日号に、

「渡辺ミッチーの秘蔵っ子 阿部令子・大阪三区--浪花のマドンナ候補統一教会の密着度 / 有田芳生と本誌特別取材班 / p41~49」

という記事が出たらしい。

また、

〈定員5人に5党が収まる「無風区」にマドンナ旋風を巻き起こしたのは、引退した村上弘前共産党委員長のあとを継いだ菅野悦子さんと、全国でただ1人の自民党公認女性候補となった阿部令子さんの2人。もっともお2人とも「マドンナ対決」と呼ばれることがお気に召さないようで、表面上は「うちは地盤を引き継いでの立候補。ライバルではありません」(菅野陣営)、「支持層が違います。気にしていません」(阿部陣営)と、冷静を装った〉

なんて記事も、1990年の「アサヒグラフ」に載ったもよう。

当時は、なんであれ女性どうし選挙でたたかいは、マドンナ対決だたんだろうか

このひとが、統一教会の霊能者役だった。

当時の記事もある。

自民党代議士秘書・阿部令子氏--経歴の空白は霊感商法元霊能者!? (総選挙特集--ただものではない候補者たち)

雑誌記事 <Z23-7> 掲載誌 Asahi journal / 朝日新聞社 [編] 31(57) 1989.12.29 p.p14~16」

 

この件については、やはり、有田芳生さんの「改訂新版 統一教会とは何か」(大月書店)をみるのがよさそうだ。

同書には、被害者の証言や、全国から動員された信者たちによる選挙活動のありさまが、書かれている。

 

「検証・統一教会=家庭連合 霊感商法・世界平和統一家庭連合の実態」山口広、緑風出版、2017

 にも、1990年衆院選での統一教会自民党(一部、民社党)候補者への応援配置の実情にふれられているというが、未読である。

「マルエス作戦」というらしい。

 

この報告は、ただ、ここまでにしておく。

 

最後に、有田芳生さんの対抗馬になっている吉田真次さんだが、政治のキャリアをはじめたのが、大阪府議会議員だった、井上哲也氏の秘書をつとめたことだったという。

そこから見出されて、下関市議会議員になったと、あるのだが、この井上哲也さん回りも、なんだか、いろいろあった世界みたいなんですね。

阿部令子氏の旧大阪3区が、吹田や豊中や摂津といったところにあたる。

井上哲也氏は、ちょうど、この地域の政治家。

井上一成の甥だという。井上一成は、社会⇒民主⇒自由⇒保守⇒自民と、渡り歩いた政治家だ。

自民からも衆院選に出たことがある。

井上哲也氏は、府議2期で、自民から維新に転じた。維新の吹田市長も1期つとめる。

Wikipediaをみると、維新議員の例にもれずというより、そのなかでも、不祥事が多かったように見える。

秘書には、こんなひともいたという。

「元秘書に関する報道

2015年3月13日、衆議院議員(当時)の上西小百合衆議院本会議を欠席し、翌14日と15日に公設第一秘書の男性と不倫温泉旅行に出かけていたなどと週刊誌で報じられた際、この男性秘書が記者を恫喝し、「オラオラ系秘書」として話題になった。

この秘書は、もともと井上の府議時代の私設秘書で、市議時代に後援企業の電気設備会社から派遣され運転手を兼ねて選挙応援を行って以来の腹心の部下となっていた。この後援企業が不祥事「異例の単独随意契約」の会社だった。」

 

吉田真次さんも、同様と言いたいわけではないが、いろいろありそうなところを、政治活動の出発点にしたひとなんだと、思った。

このレポートは、とりとめもなくなったが、なんだかいろんなことが考えられそうなデータだと思って書いた。

ちょっと思いついたことがあって、その前段の意味で、じつは上のことを書いた。

なので、この続編を、近く、書くかもしれない。

 

末尾の註釈。

表の38回までは、前記の上條末夫「衆議院議員総選挙における女性候補者」によった。

そこには、以下の注記がついている。

〇「自民」には自由民主党のほか第27回までは日本自由党民主党国民協同党民主自由党自由党、改進党、協同党、日本民主党を含む。

〇「社会」には日本社会党のほか第27回までは社会革新党労働者農民党右派社会党左派社会党を含む。

諸派には新自由クラブ社会民主連合日本労働党等を含む。

この注記を転記するにとどめて、この報告を終わりたい。